前回まで。
存在論的事柄
「観察されないもの=存在しないもの」と取り違えるのは、ごく最近の病だ。だがさらに悪いのは、「観察されないもの=観察不可能なもの」と思い込む病である。
タレブの著作で繰り返し言われる問題ですね。
究極の自由とは、「なぜそうしたか」を説明しなくてよいことにある。
僕も説明はきらーい。
あなたが存在していると言えるのは、「目に見える目的もなく、正当化も不要で、何よりも他人の物語の独裁の外側で」自由に行動できているときに限られる。
他人の物語の独裁っていい表現だぁ。
聖なるものと俗なるもの
神聖なものと俗なるものの違いを、分析せずに直感的に感じ取れないなら、宗教の意味を理解することは決してできない。芸術と呼ばれるものの本質も決してわからない。何も理解できないだろう。
宗教にも芸術にもあまりなじみがないわい。
かつて人々は平日に普通の服を着て、日曜には正装をしていた。今ではまったく逆だ。
なんでだろ。
宗教の本質は、「神はひとりだ」と人間に教えることではなく、人間が「自分こそが神だ」と思い上がらないようにすることだ。
なるほどね。
断食はダイエットよりも簡単である。「少しだけ」ハムを食べてコーシャやハラールを「少しだけ」守ることはできない。
ちょっとやるよりも完全にやらないほうが簡単だよね。
続きは次回!
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