存在論的事柄、聖なるものと俗なるもの ーThe Bed of Procrustes③ー

前回まで。

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存在論的事柄

「観察されないもの=存在しないもの」と取り違えるのは、ごく最近の病だ。
だがさらに悪いのは、「観察されないもの=観察不可能なもの」と思い込む病である。
タレブの著作で繰り返し言われる問題ですね。


究極の自由とは、「なぜそうしたか」を説明しなくてよいことにある。

僕も説明はきらーい。


 あなたが存在していると言えるのは、「目に見える目的もなく、正当化も不要で、何よりも他人の物語の独裁の外側で」自由に行動できているときに限られる。

他人の物語の独裁っていい表現だぁ。


聖なるものと俗なるもの

神聖なものと俗なるものの違いを、分析せずに直感的に感じ取れないなら、宗教の意味を理解することは決してできない。芸術と呼ばれるものの本質も決してわからない。何も理解できないだろう。
宗教にも芸術にもあまりなじみがないわい。

かつて人々は平日に普通の服を着て、日曜には正装をしていた。今ではまったく逆だ。

なんでだろ。


宗教の本質は、「神はひとりだ」と人間に教えることではなく、人間が「自分こそが神だ」と思い上がらないようにすることだ。

なるほどね。


断食はダイエットよりも簡単である。「少しだけ」ハムを食べてコーシャやハラールを「少しだけ」守ることはできない。

 ちょっとやるよりも完全にやらないほうが簡単だよね。


続きは次回!

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